琉球新報 S31.8.14 - さとみ (男性)
2025/04/26 (Sat) 16:53:54
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沖縄で開催される「沖縄ライブツアー旅行」が4月27日からスタートします。イベントのご成功を祈念いたします。
4/27(日)フィルムコンサート「不死鳥は永遠に」
4/29(火)戦後80年平和祈念コンサート
※初の沖縄公演が実現した昭和31年、ひばりさんは琉球新報のインタビューに応じました。当時の記事をそのまま転載させて頂きます。
「美空ひばりと一問一答」 琉球新報(昭和31年8月14日付)
【前書き】 さる七日来島以来、まさに沖縄興業界の記録を破り、人気の的になっている憧れのスター美空ひばり嬢に、ファンの夢や、いろいろファンの皆さんが聞きたいことなど、皆さんに代わって一問一答してみました。(K記者)
【初舞台は六歳の時】
問 ひばりさんは舞台生活はもう何年ですか。
ひばり そうねえ、六つくらいの時から叔父さんのやっている青空楽団というちっちゃなバンドで歌っていたわ。
問 童謡ですか。
ひばり ちがうの、大人の歌の真似ばっかり。「九段の母」「長崎物語」「小雨の丘」などという流行歌や歌謡曲を。
問 意味わかったの。
ひばり あたし、その時六つくらいだから意味なんかわかりっこないわ。だけど、曲だけは叔父さんが詳しく教えて下さったの。
問 本格的なステージに立ったのはいつごろ。
ひばり 終戦直後、二、三横浜の国際劇場のアトラクションに出してもらった。そしたらみんながうまいうまいといってホメて下さったので、私も夢中で勉強したの。その頃だわ、テイチクレコードでテストしてポシャッたのは。お母さんと二人でがっかりして泣いたのを覚えているワ。
【中央進出は日劇ショー】
問 中央の舞台に出演したのはいつごろです?
ひばり 十二歳の時、昭和二十三年、はじめて灰田勝彦さんと憧れの日劇ショーに出演させて頂いた時はほんとうにうれしかった。
問 その時に映画監督の斎藤寅次郎先生に認めて頂いたってワケですか。
ひばり そうなの。斎藤寅次郎先生があたしのコマッチャクレがとっても気に入ったとおっしゃって東横映画(現代の東映)の「のど自慢狂時代」という映画で笠置シヅ子さんの「東京ブギウギ」や「セコハン娘」なんか歌ったわ。スリ切れたワラ草履みたいなのを履いて。
問 その後はとんとん拍子に映画に出られたワケですね。
ひばり 松竹映画で川路龍子さんと「躍る龍宮城」や「河童ブギウギ」などのレビュー映画、津島恵子さんと「悲しき口笛」などを撮影しました。
【映画でのヒット・リンゴ園の少女】
問 映画に入って何年ぐらい。
ひばり 七年ぐらいかしら。昭和二十七年には新芸術プロダクションを作り、新芸プロ作品として昭和二十七年にヒットしたのが「リンゴ園の少女」です。新芸プロ作品は七本くらいです。その他を合わせると六十一、二本くらいです。昨年、新東宝系で上映されましたが、帰ったら休む間もなく東映作品で大川橋蔵さんとの共演で「ふり袖太平記」を撮影することになっています。
問 東京へ帰ったら休む間もないワケですね。
ひばり 沖縄に来ることが出来たのは、東映作品の撮影が都合で十五日ほど遅れたためです。そうでなかったら、沖縄行きはまた延びたかもしれませんわ。だから沖縄でのスケジュールは延ばせないし、帰ってもホッとする間もなく「ふり袖太平記」の撮影に入るのです。
【五年も待った沖縄への旅】
問 沖縄公演は三年くらい前からだったそうですね。
ひばり 支配人の話では、五年前からだったそうです。だから今年いっぱいにはどうしても沖縄に行かなければ、沖縄のファンにも申し訳ないと私もいつも思っている矢先、東映の予定が十五日ほど延期したので、五年も待たせた沖縄のファンに義理を果たしたわと支配人に相談してやっと実現したのです。
問 毎日毎日を予定で追われるのもつらいものですね。そういうところは人気者の知られない悩みってワケですか。スケジュールは何ヶ月位先まで決まっていますか。
ひばり 少ない時に半年、私は来年三月までの予定が決まっています。
問 年内にまだ地方公演がありますか。沖縄みたいに遠出することはありませんか。
ひばり 今年は地方公演はありません。映画と東京の舞台、ラジオ、テレビなどの出演や録音があります。ステージは東京公演も含めて四十日ぐらいですが、今年は沖縄公演があるので六十日ぐらいあったと思います。(つづく)
Re: 琉球新報 S31.8.14 - さとみ (男性)
2025/04/27 (Sun) 11:26:27
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【数え切れないレコード吹き込み】
問 レコードに吹き込んだのは?
ひばり やはり昭和二十七年ごろコロムビア・レコードに。「悲しき口笛」「河童ブギウギ」などを吹き込んだのをはじめ沢山出ているので覚えていないわ。自分の出た映画の主題歌はたいてい自分で映画でも歌ったし、レコードにも吹き込んであるの。それに新譜があるからずいぶんあると思うの。
問 歌舞伎座で公演したのはいつごろですか。
ひばり 昭和二十七年です。読売新聞社主催・松竹・コロムビア社・私の後援会の後援で歌舞伎座で踊ったのは今も忘れられない楽しい思い出です。
【ユックリできない二十坪の部屋】
問 ひばりさんの横浜の住居はずいぶん広いンだってね。「ひばり御殿」だと映画雑誌のゴシップにのっていたけど。
ひばり 横浜市磯子区間坂にあって敷地は四百坪くらい。家は百五十坪の和洋折衷の家で私の部屋は二十坪ぐらいの洋間です。
問 自分の部屋にゆっくり休むのは一年のうちどの位ありますか。
ひばり そうね。二十日ぐらいは自分の部屋で寝ることがあるかしら。あとは地方公演と東京と京都の撮影所やロケーションで忙しいばかりですワ。自分の部屋でゆっくりできないのはザンネンみたいだワ。
【おとなしい沖縄のファン】
問 ファンはどこにいってもあんな騒ぎですか。
ひばり ええ、もっとスゴイの。沖縄のお客さんは外で待っておられる時も整理のお巡りさんや係の人たちの言うことを聞いているし、場内でもよく拍手を送って下さるし、歌っている時は静かに聞いて下さるのでその点立派だと思っているの。お世辞じゃなく良いファンだと思っているワ。
問 沖縄で困っていることは?
ひばり 物スゴくあついのね。こんなに暑いとは思わなかったワ。冷房のある立派な館だけどあついのでステージで歌ったり踊ったりしているうちにびっしょり汗をかいているのよ。こんな暑さははじめてだわ。いろいろの思い出になることがあるけど、暑さだけは一生忘れない思い出になりそうなの。
問 十二日にファンの方と写真を撮っていましたネ。どうですか。
ひばり 思っていた通りおとなしい方たちばかりネ。わたし、これで北は北海道から南は沖縄まで、ひばり後援会を持つことが出来ましたし、みなさんから心からの歓迎を受けたことを感謝しております。東京に帰ったら沖縄のファンの方々のご期待を裏切らないように勉強したいと思っています。…ではこの辺で。(おわり)
※投稿画像は、後援会誌第7号の表紙より
Re: 琉球新報 S31.8.14
- ひばり映画っ子 (男性)
2025/04/27 (Sun) 20:41:46
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さとみ 様
貴重な、昭和31年8月の琉球新報の記事をありがとうございました。
この時の沖縄公演はその後の日本の歴史に残る音楽公演だったと思います。
米国の占領下で、戦後の沖縄の人たちの夢と憧れだったひばりちゃん。
丸3年の交渉後にやっと実現した 『沖縄美空ひばり公演』の1週間。
そして沖縄全島からひばりちゃんを見たくて劇場に集まった島民の数、5万人。
ひばりちゃんの歌を聴いて、沖縄はやっと平和になったと感じたそうです。
ひばりちゃんが亡くなった1989年の7月にNHKで放送された、
『ひばりの時代~
日本人は戦後こう生きた~第2回 成長の中の哀愁波止場』 で、
当時の沖縄公演の感動的な秘話が紹介されていますが、
その時、こんなインタビューが新聞の記事になっていたのですね。
その後の色んな番組でも話題になっていますが、
沖縄の人たちにとって、ひばりちゃんは特別な存在だったのですね。
他にもハワイ、アメリカ西海岸、ブラジル、台湾、をも含め、
現地に暮らす日本人にとって、ひばりちゃんは、
生きる上での憧憬、希望、元気の源、そして、自分の祖国、日本
と言う国への思いを何よりも強くしてくれる存在でもあったのですね。