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天才少女歌手が綴る私の1/4生記 - さとみ (男性)

2025/01/09 (Thu) 12:35:33
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遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。

『ナンバーワン』昭和25年12月号に掲載されたひばりさん(当時13歳)の手記を見つけましたので、そのまま転載して投稿させていただきます。当時の心境や状況などが読み取れると思われます。(長くなるので分けて投稿します)



《天才少女歌手が綴る私の1/4生記》 その1

★六才から歌謡曲を歌う

 私の半生記を書けとのお話ですが、満十三歳になったばかりの私は、まだ四分の一にも達しない子供ですから、別に変わったこともありませんが、学校の作文だと思って書いてみます。下手でも笑わないで下さい。

 私は昭和十二年四月十九日、横浜市磯子区滝頭町岩瀬四二七番地に生まれました。お父さんは加藤増吉、お母さんは喜美枝、私は長女で和枝と言います。お父さんは二十年くらい前に栃木県の田舎から横浜へ出て来て、今でもお店のある所で魚増という鮮魚商を始めました。私が生まれた翌年、妹の勢津子が生まれ、それから益夫、武彦という二人の弟が生まれました。

 お父さんは都々逸が好きで、お酒を飲んだ時などよく歌います。近頃では正叔父さん(増吉氏の弟)がギターがお得意なので、叔父さんに習ってギターを弾いています。拳闘が好きで、横浜公会堂でアマチュアの試合に出たことがあります。お母さんは浅草生まれで、自分では歌いませんが、歌謡曲が好きで、お嫁に来る前から歌謡曲のレコードを買って聞くのが楽しみだったそうで、少しぐらい具合が悪くても歌謡曲を聞くと病気が治ってしまいます。

 それで私は六歳(数え年)ぐらいの時からお母さんがかけるレコードを聞いて、いつの間にか覚えて歌っていたそうです。童謡は嫌いで、歌謡曲ならレコードを三回ぐらい聞くと覚えてしまったそうです。

 確か七歳の年だったと思いますが、お母さんが『九段の母』というレコードを買って来て下さったので、嬉しくてたまらず、すぐかけようとしたら、ちょうどその晩はお向うのお家で遺骨が帰ってきて、お通夜をしているから遠慮しなさいと言われたのですが、どうしてもすぐ聞きたくてたまらないので、蓄音機とレコードを押入れの中に入れて戸を閉めて、押入れの中でレコードをかけて覚えてしまいました。押入れから出るとお母さんが、「どうしたのこの汗は」とビックリしたような顔で汗を拭いて下さいました。私は「『九段の母』を覚えちゃったの」と言って小さい声で歌ってみせたら、お母さんはまたビックリしたような顔をしたのを今でも覚えています。

Re: 天才少女歌手が綴る私の1/4生記 - さとみ (男性)

2025/01/10 (Fri) 11:19:02
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《天才少女歌手が綴る私の1/4生記》 その2

★笠置のジェスチャーを覚える

 その頃、ミミー宮島さんが横浜へ来てお歌いになった時、私も大きくなったら一度でいいからマイクの前で歌ってみたいと思いました。

 昭和十九年四月、滝頭小学校へ入学しました。小学校では唱歌は優でしたが、学校で習う唱歌より歌謡曲の方が好きで、歌謡曲ばかり歌っていました。終戦後、正叔父さんが「スター美空」という楽団を七人で作ったので、叔父さんに教えて頂いて、お祭りだの近所の劇場へ出て歌いました。

 十歳(昭和二十一年)の十月、横浜国際劇場の名人会に初めて出演して『長崎物語』と『リンゴの唄』を歌いました。この時は玉川勝太郎さん、音丸さん、染団治さん、などと一緒で、みなさんから大変褒めていただきました。それから横浜国際劇場の専属になって時々出演しました。

 十二歳(昭和二十三年)の正月に初めて日劇小劇場に出演しました。この時は藤尾純さんや伴淳三郎さんの新風ショウで、ショウの中で歌うばかりでなく、『有楽町の天使』という芝居で靴磨きの少年になって、初めてセリフを言いました。この時、岡田恵吉先生が「美空ひばり」という芸名をつけて下さいました。

 名古屋の名宝劇場へ出演した時、ピアノの和田肇先生が「ひばりちゃんは大変カンが良くて人と違った味を持っているし、テンポも正しいから、先生について発声法を習うより、自由に才能をのばした方がいい」とお母さんにおっしゃったそうです。
その年の五月、横浜国際劇場に笠置シヅ子先生がお出になった時、初めて一緒に出て、毎日舞台の袖で笠置先生のお歌いになる『東京ブギ』を見ていて、スッカリその歌やジェスチャーを覚えてしまいました。私は大きくなったら笠置先生のような歌手になりたいと思いました。

Re: 天才少女歌手が綴る私の1/4生記 - さとみ (男性)

2025/01/11 (Sat) 11:01:50
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《天才少女歌手が綴る私の1/4生記》 その3

★ブギを禁じられて泣く

 二十四年五月には、灰田勝彦先生の『ラブ・パレード』で初めて日劇に出演しました。初めての日劇出演で嬉しくて嬉しくて夜もよく眠れませんでした。私は三人姉妹の中のおしゃれな末娘になって、舞台で『ヘイヘイブギ』を歌うことになったので、オーケストラの伴奏で何回もお稽古しました。そうしたら初日の朝になって、「笠置先生が有楽座で『ヘイヘイブギ』を歌っていらっしゃるから、日劇で歌ってはいけない」とおっしゃったから、何か他の歌謡曲を歌いなさいと言われました。私はせっかく楽しみにしてお稽古していたのに歌えなくなったので、お母さんにすがって「『ヘイヘイブギ』が歌えないからお家へ帰るわ」と泣いてしまいました。

 それで演出の白井鉄造先生が「ひばりちゃんがかわいそうだから」と服部良一先生や笠置先生にお話して下さって、代わりに『東京ブギ』を歌うことになりました。でもその時はもう第一回の開くすぐ前なので、オーケストラと合わせてお稽古する暇がありませんでしたので、横浜国際劇場で笠置先生の『東京ブギ』を見て覚えていた通りのジェスチャーですぐ舞台へ出てしまいました。マイクの前へ出ると、お客さんがワーッと声をあげて拍手して下さったので、すっかり上がってしまって、前奏を間違えて、少し早目に歌い始めてしまいました。

 「私ダメだわ」と舞台の袖で心配して見ていたお母さんにすがりついて泣き声で言うと、お母さんは「誰でも失敗することはあるのだから、気を落とさないで二回目はガンバリなさいよ」と言って下さいました。

 そして映画をやっている間にお稽古場でオーケストラに合わせて下さいましたので、二回目からはちゃんと歌えるようになりました。

 それから横浜国際劇場で横浜中の鮮魚商組合の慰安会のあった時出演しましたが、この時は司会者が「ひばりちゃんは磯子支部の魚増さんのお嬢ちゃんです」と紹介されたので、お父さんのために立派に歌わなくてはならないと思って、『東京ブギ』や『コペカチータ』や『星の流れに』など六曲歌いました。済んでから「お父さん、とても嬉しかったよ」と頭をなでてくださいました。

※投稿画像は、日劇『ラブ・パレード』のパンフレット

Re: 天才少女歌手が綴る私の1/4生記 - さとみ (男性)

2025/01/12 (Sun) 16:02:40
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《天才少女歌手が綴る私の1/4生記》 その4

★映画で本当に泣く

 その年(二十四年)の四月、桜満開で人々がみんな浮き立っている中、私は東横京都撮影所で『のど自慢狂時代』に初めて出演しました。続いて『びっくり五人男』に出演しました。この時はまだ引揚げて来ないお父さんを、探している花売娘になって街で歌う役でしたが、芝居をやっているうちに本当に悲しくなってしまって、涙がポロポロ出てしまいました。

 その次は松竹歌劇団の川路さんや曙さん、小月さんとで一緒に撮った『踊る龍宮城』で、主題歌の『河童ブギ』を歌いました。この歌はコロムビアでレコードに吹き込み、その時コロムビアの専属になりました。

 その後『エノケンの大放送』『おどろき一家』『向う三軒両隣り』『悲しき口笛』『あきれた娘たち』『放浪の歌姫』『青空天使』などに出演し、アメリカから帰ってから『東京キッド』に出演しました。

 レコードはその後、『悲しき口笛』『橋のたもとで』『私のボーイフレンド』『裏町エレジー』『白百合の花』『拳銃ブギ』『東京キッド』など吹き込みました。

Re: 天才少女歌手が綴る私の1/4生記 - さとみ (男性)

2025/01/12 (Sun) 16:07:10
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《天才少女歌手が綴る私の1/4生記》 その5

★憧れのオブライエンに逢う

 今年(二十五年)四月、新宿の東京精華学院に入学しましたが、撮影や実演で忙しくて学校へ行けない時は、学校の先生に来て頂いて旅館で勉強を教えて頂いています。

 歌はコロムビアの万城目正先生に教えて頂いています。

 アメリカへ来ないかとお話のあったのは昨年の十二月でした。私の出演した『びっくり五人男』がハワイで上映されて好評だったからだそうです。それに『悲しき口笛』もハワイで上映するから、その後でハワイとアメリカへ来ないかとハワイからお手紙が来ました。私は嬉しくて嬉しくて一日も早く行きたいと、毎日首を長くして待っていましたが、なかなか決まらないので、もしダメになったらどうしようかと心配でたまりませんでした。

 五月にやっと決まって、十六日の朝、羽田飛行場から大勢の方に見送られて、川田晴久さんとお母さんと三人で、パンアメリカン航空機でハワイへ飛んで行きました。

 そして、ハワイ諸島とサンフランシスコやハリウッドを廻って、七月二十四日午前零時二十六分にパンアメリカン航空機で帰ってきました。その晩は木挽町の旅館で二ヶ月半ぶりでお父さんに抱かれて寝ました。

 ハワイやアメリカでは『悲しき口笛』や『河童ブギ』の外に『三味線ブギ』や三門博さんの『唄入り観音経』を歌いました。『ボタンとリボン』を英語で歌った時は大喝采でした。何処へ行っても「よく来てくれた」と大変喜んで下さいました。
ハワイではフラダンスのお上手な岩永サツキさん(十一歳)に本場のフラダンスを教えてもらいました。

 アメリカへ行って一番嬉しかったことは、行く前から一度お逢いしたいと憧れていたオブライエンさんにハリウッドの撮影所でお目にかかれたことです。私はオブライエンさんにひばりの模様を刺繍したお振袖と汐くみの人形とオブライエンさんの似顔を描いた掛物をお贈りしましたら、オブライエンさんは御自分のガウンと帽子と首飾りと『若草物語』の扮装の人形を下さいました。

 それからボブ・ホープさんとも記念撮影をしました。

 ハワイでもアメリカでも日本人の旅館にばかり泊まりましたが、どこへ行っても私の大好きな梅干しがあったのにはビックリしました。また私がナスの漬物が大好きだというと、帰りにわざわざハワイの飛行場まで見送りに来て下さって、お土産に下さいました。日本へ帰ってお父さんに「お土産よ」と渡すと「アメリカのお土産がナスの漬物かい」とビックリしていました。

Re: 天才少女歌手が綴る私の1/4生記 - 柚子 (?)

2025/01/12 (Sun) 20:46:39
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珍しいエピソードをありがとうございます。

ナスの漬物のお話、面白いですね。

当時、アメリカに行くことは大変だったはず。

ひばりさんは、特別ですね。

Re: 天才少女歌手が綴る私の1/4生記 - さとみ (男性)

2025/01/13 (Mon) 10:25:46
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《天才少女歌手が綴る私の1/4生記》 その6(終)

★恋の唄は父への愛で歌う

 私はお家にいる時はお人形やお手玉やままごと遊びをしています。アメリカからお人形をたくさん買ってきましたが、中にはお乳を飲んだりおしっこをするお人形があります。

 それから野球が好きで、近所の男の友達とチームを作ってピッチャーをやっています。正叔父さんが美空チームを作っているので、時々そのチームにも出ます。選手では大下選手が大好きです。

 私は小さい時から負けず嫌いで、まだ小学校へ入らないうちから、お家でよく百人一首をしていましたが、十六首ぐらい暗記してしまいました。

 お父さんはお店が忙しいので、実演や撮影の時はいつもお母さんがついていて下さいます。お母さんは「歌謡曲は感情を込めて歌わなくてはいけない」といつも言いますが、大人の気持ちがよく分からないので困ります。お母さんは「ひばりちゃんはお父さんが大好きでしょう。そのお父さんと別れている時は、とても淋しくて、逢いたくてたまらないでしょう。そういう気持ちで歌うのですよ」と教えてくださいます。(おわり)

Re: 天才少女歌手が綴る私の1/4生記 - さとみ (男性)

2025/01/13 (Mon) 10:26:51
112.169.201.84

柚子様

お読みいただきありがとうございます。
思わぬところに沢山のページが載っていてびっくりしました。何より10代の頃の話をひばりさんご本人から語っていただき、とても新鮮でした。今後とも宜しくお願い致します。

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