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「別冊近代映画 美空ひばり読本」 昭和33年5月発行 - さくら (?)

2012/04/09 (Mon) 01:16:05
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スタア研究のページ『美空ひばりの肖像』 ~識者はこう見る~ 関根弘(詩人・評論家)

≪「ひばりちゃんを讃えるだけでなく、不評もしてほしいと思います。いいところを悪くけなせというのではありませんが、儀礼的な讃辞が多すぎる気がします」・・・・企画部に寄せられたファンの声にこたえて、今まで見られなかった角度から描いたひばりちゃんの肖像!≫

 おなじ日本人でも、夏目漱石をしらないものは多い。けれども美空ひばりの名前は日本中がしっている。
 評論家の大宅壮一がしらべたところによると、第二の文部省といわれる岩波書店でだした夏目漱石の本の総売上げ部数は、千五百五十万部。一個人の著作物としては日本最高である。美空ひばりが昨年十月末現在でコロムビアに吹込んだ歌は二百四十五曲。その総売上げ枚数は五百万枚を突破しているだろうといわれている。
 このレコードの売上げ枚数は、夏目漱石の本の総売上げ部数の約半数にあたるが、レコード一枚あたりの聴き手をかりに二十人とみても、日本の総人口が彼女の歌をきいていることになる。彼女は国民的存在である。
 えれども夏目漱石の愛読者は、かならずしも美空ひばりの忠実なファンではないだろう。また美空ひばりのファンはかならずしもン冊目漱石の忠実な読者ではないだろう。なかには例外のひともいるかもしれないが・・・・。インテリ諸君の常識では、夏目漱石は知識人の文化を代表しているし、美空ひばりは庶民の文化を代表しているということになっているのだ。いっぱん的なことをいえば、夏目漱石のファンは、美空ひばりをサイテイだと思っているし、美空ひばりのファンは夏目漱石を漢文か国語のセンセイ位にしか思っていないだろう。
 つまり、ファンの層がハッキリ二つにわかれているのだ。この現象を文化の断層だといって、額に八の字をよせ、シンコクがる人もいるが、くだいていえば、シンコクな問題が好きなのがインテリ、手近な夢を楽しんでいるのが庶民ということになるだろう。美空ひばりをインテリ向のスタアだと思うものはひとりもいない。彼女はいつも庶民に顔を向けて歌っている。
 ところが、幸か不幸か、庶民の方にばかり顔を向けているために、彼女はインテリの批評の圏外におかれてきた。彼女の人気を疑うものは誰もいないが、この庶民の女王の誕生の秘密を社会的に説明したものもなければ、十年間にわたって最高の人気を維持してきた理由を明らかにしたものもない。
 美空ひばりの芸域の広さ、カンの良さについては、多くの芸能人、作詞家、作曲家によって語られた。彼女はいつも讃辞の花束に埋まってきた。けれども、文学者だとか、映画批評家だとか、局外の知識人の批評に接する機会は稀だったのではあるまいか。
 局外者は、美空ひばりの十年の人気の秘密をどうみているであろうか? 以下、局外の多方面から集められたアンケート(感想文)にもとずいて、美空ひばりの新しい肖像を組立ててみることにする。
 ソ連の人工衛星打上げが成功、アメリカも負けじとばかり打上げて、いまや、宇宙時代といわれているが、「宇宙文明論」などの著書によって知られている文芸評論家の荒正人氏は、十年間の人気を維持した彼女の秘密をつぎのようにみている。

★ 魚屋の娘であるとか、また、したしみやすい顔をしているとか、いろんな理由をあげることができると思いますが、十年間の人気を維持した何よりの理由は、負けじ魂による不断の精進の結果だと思います。つまり、この人気を最も深く捉え、ファンとともに成長してきたと思います。これは日本の芸能界の歴史でも珍しいことです。これからは、ファンの音楽的感覚も、かなり選択されてきているから、これまで通りの歌い方で、やっていくのがむずかしくなるかと思います。もう一段の工夫を望みたい。 (荒正人)

 つまり、荒正人氏は、魚屋の娘、あるいはしたしみやすい顔・・・・といったように、表面的庶民的感覚に訴えるだけだったら、十年の人気などとうてい維持できない。負けじ魂による不断の芸道精進があったればこそ、ファンの声援を一身に惹きつけることができたのだ、と常識的な美空ひばり観の薄皮をはいでみせている。けれども現状で満足してはいけない。ファンも進歩するし、いま一段の工夫が必要ではないかと忠告している。
 市川右太衛門、月形竜之介、大友柳太朗、淡島千景といった映画スタアの面々、作詞家の石本美由紀、作曲家の上原げんと、コロムビア録音課長樋口日吉といったひとびと、そのひとたちが、異口同音にほめるのが、美空ひばりのずば抜けたカンの良さである。歌から踊りから演技まで完全にこなしてしまうのは、このカンの良さだが、しかしさらに負けじ魂といったように精神的支えがなければ、映画、テレビ、ラジオ、実演と早変りの舞台そのままの実生活をとうていがんばりきれるものではあるまい。この点は、たしかに荒正人氏の指摘する通りだが、今後のあり方に関する忠告はそのまま受けてよいであろうか。宿題として先へ行こう。さて、つぎに作家で、おなじく文芸評論家の杉森久英氏は、「僕もファンです」と打明けている。  ・・・・・つづく

Re: 「別冊近代映画 美空ひばり読本」 昭和33年5月発行 - さくら (?)

2012/04/10 (Tue) 23:49:05
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★ 僕もヒバリさんのファンです。
 ヒバリさんの歌には、人の世のよろこびと悲しみとが深くたたえられているような気がします。ヒバリさんの歌を聞きながら、すぎ去った青春のたのしい回想にふけるのは、僕にとってこの上ないなぐさめです。
 ヒバリさんの歌は頽廃的だから、もっと健全な歌を歌うようにと、忠告する人がありましたが、まったく見当ちがいも甚だしいと思います。僕たちは歌を聞いてたのしむのに、なにも道徳や民主主義のおセッカイを受ける必要はないのです。
 ヒバリさんの歌は非常に表情的ですが、それが一番高調に達したときは、泣きべそをかいたような声になることがあります。多くのファンにとっては、あれが魅力的なのでしょうが、僕には、ホンのちょっと過度だと思えることがあります。あの一歩手前で留めていただいたほうが、僕にはいいように思えるのですが。 (杉森久英)

 杉森久英氏は、ひばり調とでもいうべき、哀愁のリズムにふれて、彼女の歌をきいていると、すぎ去った青春がよみがえる。けれども表情過多なところがきにかかるというふうにいっているわけだ。荒正人氏がいま一工夫ほしいといっていることと、陰影(ニュアンス)はちがうが、やや共通している注文ともいえる。表情をコントロール(調整)するというのは知的な操作であり渋い表現になる。インテリ側としてはそういう注文をつけたいところだろうが、杉森氏自身もいっているように、美空ひばりファンはむしろ表情過多のところに魅力を感じているのであろう。
 作家で、直木賞の受賞者である今官一(こんかんいち)氏は、「郷愁の乙女」として、無条件に美空ひばりを賛美している。田園の抒情にたいするあこがれを彼女の歌に託しているわけで、美空ひばりファンのきもちの一面を文学的に修飾している。たいへんな惚れこみようだ。

★ いちども、おめにかかったこともなければ、舞台姿を観たことも、ありません。それでいて、美空ひばりという名前と、うた声は生れたときからのように、私の胸には、刻みついています。私の生れ故郷の津軽を背景に、りんご畑の乙女の嘆きを歌った唄がありましたが、あの歌声に耳を傾けていると、いまでも、私には、少年時代をかぎりに遠ざかっていた、津軽の乙女たちへのほのぼのとした郷愁が湧いてきます。この歌ひとつで、美空ひばりは、私の永遠の憧憬となるでしょう。私は、美空ひばりの、そういうファンです。初対面の谷崎潤一郎 先生に、美空ひばりをおききなさいといって、けむたがられた記憶もあります。都会芸術家ずれのしない、牧歌的な歌声も好きですが、気がねなく、自分の考えを、おしすすめる生活態度にも、共感を覚えます。歌では「長崎の蝶々さん」も好きでした。消えて行く青春と、失われて行く田園の乙女たちへの郷愁が、私には、美空ひばりの歌声の、またとない魅力のように、おもわれます。 (今官一)

ここには、美空ひばりファンのきもちの一面が強調されている。美空ひばりの歌には、たしかに大人を少年時代、少女時代にひきもどすはたらきがある。けれども、それは彼女の魅力、あるいは人気のすべてを語るものではない。それは、あくまで彼女の一面であろう。
 もっとも、こうしてみると、美空ひばりは局外者からの受けも悪くないどころか、最上の讃辞をよせられていることがわかる。彼女の長期にわたる人気に儀礼的に敬意を表しているのではなく、みんな心からその歌に動かされているのだ。ドライという言葉が、ホンヤクしないでも通用するようになった時代に、オセンチな話だネ、と悪口いわれるかもしれないのを承知の上で、杉森久英氏や今官一氏は、彼女を賞めているのである。オドロクべきことだ。
 しかし、これにたいして、まったく反対の意見もあらわれている。おなじく作家の杉浦明平氏。「台風騒動記」という映画の原作者の意見は対立する。  ・・・・・つづく

Re: 「別冊近代映画 美空ひばり読本」 昭和33年5月発行 - さくら (?)

2012/04/12 (Thu) 01:43:12
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★ わたしは、子供時代のひばりからして好きではなかったし、今でも同様で、ほとんど関心をもちえません。いつか「何とか三人娘」という映画を見ましたが、わたしには、さっぱりおもしろくありませんでした。ひばりの魅力というものが「平凡」などのグラビアで見ても、その映画で見ても、わたしには理解しかねました。
 ただ、ひばりが美人になったりお姫さまになったりするのはまちがっているような気がします。女中さんとか、そこらの八百屋の娘さんとかに扮すればもっと特殊な興味がもてるかもしれません。今のところでは、マス・コミにこねまわされた団子か何かのようで、人気が出れば出るほど、むしろ気の毒のような気もします。 (杉浦明平)

 子供時代からの美空ひばりの成長の記憶を辿って、十年一日のように声援を送ってきたファンは、「わたしは子供時代のひばりからして好きではなかったし、今でも同様で、ほとんど関心をもちえません」という言葉に、大きなショックを受けるだろう。さらに杉浦明平氏は、「今のところでは、マス・も気にこねまわされた団子かなにかのようで、人気が出れば出るほど、むしろ気の毒のようなきもします」といい切っている。おそらく「この意見は過激すぎる。そんなことをいっては、ひばりちゃんが可哀想だ」と思う読者が多いことだろう。しかし、そういう読者諸君もひとつここでかんがえてもらいたい。批評というのは賞めるのばかりが能ではない。悪くいうのも批評であり、その批評が、もしも痛い針をふくんでいても、ためになるものならば、じっとガマンして聞かなければいけないのだ。欠点をいわれるのは、誰しもイヤなものだが、いわれたときからそれを直そうとすれば、最後には自分のためになるのである。
 ひばりファンにとっては、おそらく理解しにくいことだろうけれど、世の中には、杉浦明平氏のようにかんがえている人も多いのだ。はじめに、わかりやすくするために、ファンの層を二つにわけ高級なほうに8夏目漱石の読者をかんがえたが、どちらかといえば、杉浦明平氏はそちらのほうの仲間である。なかには、そちらのほうの仲間にいても、杉森久英氏や今官一氏のようにひばりを好きな人もいる。けれども、それは多くを期待できない。インテリの採点は辛いのだ。
 杉浦明平氏は、「なんとか三人娘」という映画をみたが、さっぱり面白くなかった「平凡」などのグラビアで見ても、その映画で見ても、ひばりの魅力というものがわからなかった」といっている。これは杉浦氏にとっては、すこしも誇張でなく、まったくほんとうのことなのだ。なぜかといえば、杉浦氏はそこから意味や教訓をひきだすことができないからである。「マス・コミにこねまわされた団子」だというのは、たしかに、ある意味で正しい。けれども・・・・。
 ひばりファンの肩をもって、すこし杉浦氏に異議を申し立てよう。杉浦氏はこう書いている「ひばりが美人になったりお姫さまになったりするのはまちがっているような気がします。女中さんとか、そこいらの八百屋の娘とかに扮すれば、今よりもっと特殊な興味がもてるかもしれません」だが、杉浦氏の意見をいれてもしも彼女が美人になったりお姫さまになったりするのをやめたら、彼女の人気と魅力はおそらく半減するにちがいない。彼女はもともと庶民的な顔だちをしており、その唄も、誰の手にも届きそうな場所にある。ということは、どういうことになるかといえば、美空ひばりと彼女のファンはたやすく一心同体になれるのだ。「ひばりちゃんはわたしとおなじなのよ」とみんな思いたがる。いや、思ってしまう。そのひばりちゃんがお姫さまになる。歌舞伎役者になる。若衆になる。社長になる。水平になる。なんにでもなる。これほど素晴らしいことがほかにあるだろうか。彼女とともにあれば、この世でかなわぬねがいごとはない。ひばりとともにあることが幸福だ。彼女の一挙手、一投足、それは自分の呼吸(いき)とおんなじだ。ファンのきもちというのは多かれ少なかれ似ている。いたるところに彼女の顔をみたい。雑誌なら、表紙からグラビア、最後の頁にいたるまで、すべての頁に彼女の顔、消息をみたい。私生活のすみずみまでをしりつくして安心だ。これは、無関心なひとの目からみれば、病的な状態であり、クソ面白くもないことであろう。けれども、大衆の幸福というものを考えるならば、このような人気の招待に無関心であっていいとはいえないだろう。杉浦氏の意見は正しいにしても結論をすこしいそぎすぎてはいないだろうか。
 映画評論家の南部僑一郎氏は、自分の好き嫌いの感情を殺して、第三者的に、美空ひばりの人気の正体を考える。氏によれば、彼女は浪曲の雰囲気をもっているのだ。  ・・・・・つづく

Re: 「別冊近代映画 美空ひばり読本」 昭和33年5月発行 - さくら (?)

2012/04/13 (Fri) 00:32:55
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★ 美空ひばりの人気が危ないと云われてから何年たったろう。いまだに、たとえば今度の歌舞伎座かり切り記念興行のように、割れるようなウケかたである。奇妙な現象、とだけ云ってはすむまい。
 彼女は、その顔も歌も、同じ庶民の、ほんの手の届きそうな場所に在る。誰でもそれを自身のものにできそうな錯覚をあたえる。これが人気の基本になるものではなかろうか。
 彼女の歌は、あきらかに「語りもの」の一種だ。云うなれば平家琵琶と関東節のたぐいである。泣くがごとく、むせぶがごとく語っている。浪曲の雰囲気も加味している。そして、この種の語りものは、なかなか亡びない。この意味で、彼女はスタアである。スタアというものは、歌がうまいとか演技が上手とかの範囲を出た存在である。 (南部僑一郎)

 この意見には、ほとんどつけくわえる必要をみとめない。「スタアというものは、歌がうまいとか演技が上手とかの範囲を出た存在である」というのは、うまくいいあてている。この言葉を裏書きするのが、つぎの旗一兵氏(映画評論家)の意見ではないであろうか。

★ 鮮烈な近代感はないが、それを除けば万能に近い天才に恵まれてる。近ごろの映画や舞台からは、またひとしおの演技上の進境がうかがわれる。立回り(殺陣)も非常にうまくなった。もちろん表芸の歌は一層テクニックのこまかさを増した。余人であれば、いささか手のうちがよめる歌と演技なのだが、それが彼女の試合はスレスレのところで逆の魅力におきかえられる。顔、タイプ、性格などからくる調節作用なのだろう。
 彼女のピークは声変りの時に、いちばん痛感された。それが突破できたのだから、その後に苦境や人気の変動がないのは当然である。目まぐるしい新しさの中の芸でないものを、多面的に消化し、適度に悪達者に適度に潔癖に演ずるところが、日本の芸能ファンの大部分を占める「三角形の底辺」に密着したゆえんであろう。とにかく私生活の上でも仕事の企画の上でも、これほど策をめぐらさず、むしろ自分自身をたよりに歩いてきた人はいない。実力がなかったら、とっくに置いてけ堀にされていたであろう。 (旗一兵)

 もしも美空ひばりが、真に迫る演技をしたら、そのばあいにも、彼女の人気はちがったものになるだろうということが、ここには語られている。「余人であれば、いささか手のうちがよめる歌と演技なのだが、それが彼女の場合はスレスレのところで逆の魅力におきかえられる」というのは、言葉をかえていえば、彼女の演技の素人臭さが、むしろ逆に魅力をつくりだしているということであろう。つまり、美空ひばりがお姫さまならお姫さまになりきった本格的演技、入神の演技を示すと、ファンは美空ひばりについてゆけなくなる。それは、彼女の素顔がスクリーンから消えてしまうからだ。ひばりのファンは、ひばりがお姫さまらしく演技してくれればよいので、お姫さまになりきられては困る。かつらを脱げば、すぐに素顔のひばりが現れるのがわかっている状態が嬉しいのだ。ひばりのファンは、ある種のかくれんぼ遊びをたのしんでいるのである。
 そこに、彼女が歌舞伎座を買い切って、一人舞台で成功した原因もある。彼女は歌舞伎座をかりるのに、最初に大谷会長に手紙を書いた。手紙の文面は、「私たちと同じ年頃でしかもあまり豊かでない子供達が歌舞伎座を大変見たがっております。その歌舞伎座の舞台で私が唄って、踊って、そういうお友達に是非見せて上げたいと思いますからおかし下さい」という意味だった。歌舞伎座をみたくてもなかなかみる機会のない子供達の夢に、自分の歌と踊りを抱き合せたわけだ。これはファンにたいするサービスだし、形を変えた素顔のつきあいということになるのだ。
「目まぐるしい新しさの中の芸でないものを多面的に消化し、適度に悪達者に、適度に潔癖に演ずるところが、日本の芸能ファンの大部分を占める『三角形の底辺』に密着したゆえんであろう」と旗一兵氏がいっているのも、美空ひばりのこの素顔の要素をさしている。「とにかく私生活の上でも仕事の企画の上でも、これほど策をめぐらさず、むしろ自分自身をたよりに歩いてきた人はいない、実力がなかったら、とっくに置いてけ堀にされていたであろう」この観察はきわめて鋭いといわなければならない。
 さてそこで最後に美空ひばりは、今後も同じ方向で、同じような人気を守りつづけることができるか、というもんだいになる。舞踊家の矢田茂氏は、美空ひばりの十年の歩みをみてきて、彼女をミュージカルスの第一級スタアとして期待したいといっている。  ・・・・・つづく

Re: 「別冊近代映画 美空ひばり読本」 昭和33年5月発行 - さくら (?)

2012/04/14 (Sat) 01:53:11
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★ 私はひばりちゃんを十歳位の時から知って居る。その頃は私が有楽町のガード下にスタジオを持って教えて居た頃のこと、よく夜おそく有楽町の駅のホームでお母様と二人で電車を持っているひばりちゃんを見かけたもので、本当に可愛い女の子だった。
 それから十年、彼女の努力は報いられ、そして名実ともにスタアの地位を築きあげて来ました。大衆の中のスタアとして、彼女は人間としても魅力のある芸術家になってしまった。
 彼女は天才ではない。又ひばりちゃんは肉体的にも一向に恵まれて居ない。しかし彼女の努力が一切のマイナスをカバーして余りあるものを築いたのだ。しかも自分勝手でなく大衆の中のスタアとして歩み続けて来た。
 日本人としてインターナショナルなショウビジネスの観点から見ても第一級のクラスなのだ。日本舞踊を修め、そして又彼女の持つフィーリングはモダンジャズをもマスターする。演技は女優としても確立している訳だ。唯彼女はそれを大衆の中に基盤を置いて生きて居る。この事が彼女の素晴らしいことなのだ。或る種の人々に云わせると、流行歌と云うジャンルの中にある人のことを軽蔑する。しかし私はそう云う人が一度ひばりちゃんに会って話したなら、一ぺんに彼女の本当のファンになってしまうだろうと思う。
 それは彼女の人間がそうさせるからだ。
 本当のスタアとは大衆の中から生れた英雄でなければならないし、その英雄が大衆を救い、又日本を救うものなのだと考えている。それは芸術家でも又政治家でも同じことなのだ。
 私はひばりちゃんが好きだ。その好きなひとに今後何を期待するか、これがこれからの彼女の将来を決めるキイポイントの問題だと思う。現代の第一級のスタアとして、ミュージカルスの場合、彼女は最も信頼の置けるタレントの一人であり、今後の活躍も充分期待される。
 然し問題は、彼女の仕事が彼女の時間を、彼女の生活が彼女の仕事の方向をどう変えてゆくかにあると思う。
 ひばりちゃんのファンの皆様も、厳しく生きる彼女をはげまして今後の活躍を期待して下さい。私も又大衆の中の一人として厳しい眼を彼女に向けて今後に期待しましょう。

 矢田茂氏は、美空ひばりをミュージカルスのタレント(有能な働き手)として期待しながら「問題は彼女の仕事が彼女の時間を、彼女の生活が彼女の仕事の方向をどう変えてゆくかにあると思う」と書いている。ということは、美空ひばり自身が今後の方向をきりひらき、決定してゆくことになるという意味だ。はたからワイワイいってもそれだけではダメだ。「ひばりちゃんの百科辞典」というのをみると、今一番ほしい物は? おいう問いに、ミュージカルの脚本です、という答えがある。彼女自身もミュージカルスには、そうとうの野心をもっているのだ。
 美空ひばりにおあつらえ向の脚本がないこともないだろう。けれども、ズバ抜けたカンのよさで、ミュージカルスもひと通りこなしてみるというのなら問題はないが、そこに第二の自分を発見しようと思えば、彼女は、これまで出会ったことのないような抵抗と困難にぶつからざるをえないだろう。美空ひばりが第二の自分を発見すればするほど古いファンは去るからである。
 結婚をお母さんに反対されたら? 私も反対です、と美空ひばりはかんがえているが、こういうかんがえは、しだいに色褪せたものになりつつあることに彼女もきがつかないわけではないだろう。このことにかぎらず、一事が万事ハメをはずさないように彼女は生活を縛っている。これは、少女の理想だ。もちろん、そうだからといってこれをケイベツし、親不孝を奨励するわけではないが、彼女のなかに一人前の女の自我が目ざめてきたとき、彼女はこれまでの自分を超えようとするかもしれない。
 そうするとこれまでのお行儀のよさが邪魔になるといった場合も考えられよう。
 雪村いづみは「ひばりちゃんに白状させてみたいことは?」ときかれて「ひばりちゃんが本当に幸せかどうか、本心を聞きたいわ。うっすらわかるような気もするけど」と答えている。この答は少女スタアに共通の悩みのようなものを打割って話しあいたいというきもちがひそめられているのではなかろうか。
 しあわせは、人気にあるのか。
 自分をほんとうに表現することにあるのか。
 ほんとうのことをいうと、美空ひばりのこれからのことは、神様だけがしっているわけだが、文芸評論家の本多秋五はつぎのように発言している。氏は「戦争と平和論」とか「宮本百合子論」というような分厚い著書によってしられており、さいきんは中国を旅して帰ってきた。

★ 美空ひばりの映画はニ度しか見ていませんが、私の骨相学(?)からいうち、将来は平林たい子氏に匹敵する大女史になる相をそなえた、人と思います。 (本多秋五)

 平林たい子氏といえば、女流作家の大幹部級。夫君の小堀甚二氏との離婚事件などで有名になった。げんざいのひばりちゃんからそれに似た大女史を想像することは、とってもできないが、時間の芸術はなにを作るかわかったものでないということだけはいえるだろう。  ・・・・・おわり

≪この評論にたいする皆さん方のご意見、ご感想を企画部宛お寄せ下さい。『花笠若衆』号で特集いたします!≫

こんな記事がありました。 - 樋口眞一Mail (男性)

2017/04/30 (Sun) 14:53:38
*.bbtec.net

私は日本コロムビアで録音技師をしていた樋口日吉の長男です。こんな記事がインターネットで見つかりましたので
ご覧下さい。
http://hibari12.my.coocan.jp/sub62.html

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